2009年7月10日 (金曜日)

腐蝕

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今日の展覧会。「中林忠良銅板画展ーすべて腐らないものはない」(6月27日~8月2日)於・町田市立国際版画美術館。

中林忠良も魔性の色に魅せられた一人かもしれない。黒は無限の色を内包している。そこから差す光は「生」か「死」か。利休は「黒は古き心」と云った。黒から発せられる妖しい光は多くの茶人たちを虜にした。私にとっては重すぎる色だ。

腐蝕した、枯れた先には何が見えるのか?利休は死を受け入れざるを得なかったが、茶の湯は「生」を見続けている。

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2009年7月 9日 (木曜日)

芸の道に害あること

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今日のワイン。北海道ミュラー・トゥルガワ。

享保時代に寒川辰清によって編纂された『近江輿地志略』に「芸の道に害あること、遠州といえば茶坊主の如くおもひなせり。芸の為にあたら武名を失ふ。君子慎まずんばあるべからず。物を翫べば志を喪ふと、ことわりなる哉。あられ釜、井戸、熊川の茶碗も飢たる時一摑みの米にはしかず。武備一放の鉄砲の代りにもならざれば、無用といふべし。況や限りある金銀を以て、茶器に費す事をや」とある。

この批判は質素倹約を旨とする徳川吉宗の治世を背景に生まれたものであろうが、現代がまさにこの時代の再現だ。
財政再建の名のもと、国も地方も、まずは福祉を切り捨て、文化を切り捨てる。生きるための誇り、心を奪いさる政策である。非生産と思われている分野だ。それが活力につながることがわかっていない。削るべき所は他にもっとあろうものを。私が習った教科書でも享保の改革を評価する立場であったが、その後民衆たちが辿った歴史を見れば疑問視せざるをえない。そして幕府が崩壊の道を辿る始まりであったことに気付くべきだ。

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2009年7月 8日 (水曜日)

釣瓶

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今日の稽古のお菓子。日本橋・三はし堂製「花氷」。

夏になると釣瓶の水指が使われることが多い。南方録に「釣瓶はつくばいて下に置き、其所を動かさず。さてまた、後まで置付てよし。客立て後、取り入るべきなり。口伝、所作とも多し」とある。他の水指とは扱いが違うのだ。南方録にも「口伝、所作とも多し」とあるだけでその理由をつまびらかにしていない。

釣瓶が特別であることは、先週書かせていただいた「井戸」にまつわるブログを読んでいただければわかるように、異界の出入り口、井戸から湧き出る水をくみ出すために釣瓶がある。神聖な水が入っている釣瓶だからこそ、平伏し蹲って置くのであろう。当然、少なくなったからといって他所の水を足すことは考えられない。

最初の状態に戻すことが茶の湯の基本理念ではあるが、水を使った後の釣瓶をそのまま席に残すのも、そこには見えないけれども永遠に水が湧き出る神聖な井戸があり、特別な空間、境界が存在していることを示唆している。

釣瓶が井戸を象徴していることは明らかであり、その境界を安易に動かすことは秩序を乱すことになるのだ。だから、客が席を退出した後に片付けよと云うことになる。

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2009年7月 7日 (火曜日)

七夕には素麺を

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今日のお菓子。小石川・一幸庵製「天の川」

まずは、お知らせ。
今月31日(金)武蔵野市吉祥寺において壷中庵の新規稽古場を開く。場所は井の頭公園入り口にある米八本店内の茶室、時間は月2回の第2・第4金曜日(13時~19時)。ただし、年内はすでに茶会等の予定が入ってしまっていることが多く、変則の金曜日となる。私の教場としては、日本橋、中川、神楽坂についで4番目だ。場所を貸していただける米八様には感謝。

茶道の稽古をと考えていらっしゃる方、ご興味のある方は是非お問い合せいただきたい。

さて、今日は七夕。「色紙のついでに素麺買ひにやり」。江戸時代の川柳にも詠まれているように七夕には素麺を食べる慣習があると稽古場で話したら、ほとんどの人が初耳だったようだ。語呂合わせの似非「~日」が多い中、七夕は正真正銘の伝統ある素麺の日。今日、素麺を食べた人はどれくらいいらっしゃるのだろうか?素麺業界のプロモーションの仕方がね・・・。

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2009年7月 6日 (月曜日)

独り稽古

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今日の個展。「三好貴子展 my favorite things ⅩⅡ」、銀座煉瓦画廊(銀座4丁目13-8)7月6日(月)~12日(日)まで。

水彩画は一発勝負と聞いた。描き直しが出来ないそうだ。迷いがあるとタッチにあらわれる。自然、筆に心がこもり、生きた筆遣いが人を惹きつける。茶道の点前も一瞬一瞬が真剣勝負で点前のやり直しはきかない。その一瞬のために我々は稽古をする。しかし、漫然と稽古をしては時間の無駄である。稽古の仕方は難しい。

長闇堂記に「数寄をたしなまむ人はふだん茶独りたてまじきものなり」とある。独りでお茶を点ててはダメだということである。私も人前で稽古をするように、独り稽古はよくないと云われた。常にお客の眼をを意識し、お客に眼を配りながら、独りよがりの点前にならないよう気をつける。稽古と云えども人の眼があるとやはり真剣味が違う。

うちでお茶を点ててますかと、たまに聞くときがある。稽古をしてますかという意味ではなく、誰かにお茶を点ててますかということだ。自分のためだけに点てると甘えがでる。人のためという思いがあると、自然と心がこもる。

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